何年在学していても、この辺り一帯に漂う海からの潮の匂いには違和感があった。
ただ、それも貴重な思い出のひとつには違いない。
M希ちゃんと帰った道々で、日々嗅ぎ続けた香りだ。
潮の香りと、工場町から遠く聞こえてくる重々しい金属音は、彼女との帰り道には欠かせない要素だった。
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雪はそれほど激しくなる気配はなかった。
もともとそんなに雪が降る地方でもないから、大雪で帰れなくなるようなことはまずないだろう。
それに、M希ちゃんと一緒に歩く最後の機会だ。彼女が雪を気にしていない以上、そんなことを心配するのは無駄以外の何物でもない。
「三年間、色々あったよねえ」
「そうだな…楽しかったな」
とはいえ、トボトボ雪の中を歩きながら、俺とM希ちゃんは言葉少なだった。
どうしても感傷的な気分にはなるし、話せば話すほど名残惜しさばかりがこみ上げてきてしまう。
結局、海のそばに出るころには、僕らは沈黙することの方が多くなっていた。
何とか話をひねり出さなくてはと心で焦ったけれど、それで話題が浮かぶなら苦労はしない。
それに、下手な話題を出すわけにもいかない。特に、先日の告白の件を思い出させてしまうと、きまずくなるのは目に見えている。
仕方なく、俺はせめて彼女と一緒に歩いているという、そのことだけを意識するようにした。それだけでも、何となく気が休まる気がした。
「…この間のこと、ごめんね」
彼女がそう言ったとき、俺はドキリとした。
俺が敢えて避けていた告白の話を、彼女自ら蒸し返してきたんだから。
「そのことはいいって。気にしてないからさ」
「そう」
「M希ちゃんこそ、気にしないでくれよ。引きずられると俺の方が困る」
「…そう、だね…」
M希ちゃんは、寂しそうな顔をした。
どうしたんだろう。何か、まずいことを言ってしまっただろうか。
俺が焦っているうちに、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「…恋愛って、難しいよね」
「…」
「…わたしなりに、一生懸命だったんだ」
「そうか」
「でも、一生懸命になったからって、それだけじゃどうしようもないんだよね」
「…そうなんだろうな。でもM希ちゃんはなんも悪くないってことじゃないか、それ」
「…うん。仕方ないっていう、それだけなんだけど…他に、何かできることがあったんじゃないかって思っちゃう」
「そうかな…やれることはやったんだろ」
「うん、でも…やっぱり考えちゃうよ。…セックスだって、もっといろんなことさせてあげればよかったのかな…とか…」
ずしんと、鈍器でぶん殴られるような衝撃が頭の中を走り抜けた。
今時処女にこだわっているわけではない。それに、付き合っていた以上セックスはつきものだ。
何の不思議もない。そんなことは俺だってわかっていたし、例の噂でそんな話は既に聞いていた。
けれど、理屈と感情は別だ。好きな女の子が他の男とセックスしたという事実を平然と受け止められる奴が、どれくらいいるというのか。
多分、一割もいないんじゃないかと思う。
それをよりによって本人の口から直接聞いたのだ。頭がガンガンした。
「そ…そう…」
俺の声は自分でも情けないほどにうわずっていた。
納得していたつもりでも、俺は心のどこかで噂が嘘なんじゃないかと一抹の期待をしていたんだと思う。
普段から真面目そのものの彼女だ。セックスのイメージとは全然結びつかないし、そう簡単に身体を許すとも思えない。
もしかしたら、最後まで清い付き合いをしてたかもしれないじゃないか。そんな見苦しい思いを、俺は拭い去れていなかったんだろう。
さすがに俺の様子は変だったんだろう。
彼女は慌てたように言った。
「ご、ごめんなさい!…こんなの、あなたに言う事じゃないよね…」
「き、気にするなよ…」
虚勢に過ぎなかった。俺は次に何を言うべきか、まったく頭が回らなくなっていた。
雪が何だか、さっきまでよりも激しくなった気がした。
「幻滅、した?」
恐る恐るという雰囲気で、彼女はもう一度切り出してきた。
「そ、そんなわけ、ないだろ…別に不自然なことでもないし…びっくりしただけだよ…」
本心だった。落ち込んではいたけれど、幻滅はしていない。
それだけは誤解しないでほしいところだった。
それが通じたのか、彼女はほほ笑んだ。ただ、その笑顔には、力はなかった。
「そう…よかった」
「…」
「でも、びっくりって…そんなにわたし、ああいうこと、しなそうに見える?」
「…まあ、なあ…そういうイメージじゃないわな」
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俺は、正直に答えた。やはり相当キツかったけれど、それは話の流れを考えたら仕方ない。
それよりも、今無言になってしまう事の方が怖かった。そうなったら、きまずいなんてものじゃない。
彼女から話を振ってくれるだけでも、ありがたいと思うべきだ。
そう思って自分を抑え込んでいると、M希ちゃんは意外なことを言い始めた。
「そうなんだ…そんなに抵抗はないんだけどな。今もね」
「…?」
彼女の言葉の意味を、俺はすぐには飲み込めなかった。
けれど、無言のままの俺を置き去りにして、彼女は話し続けた。
「わたし、そんなにエッチなことに興味ないわけじゃないよ…嫌いでもない。限度はあるけど…でも、ちゃんとわたしを好きでいてくれる人相手なら…拒まないよ」
「…」
「だから…それがたとえ一度だけだったとしても、…真面目にエッチするんだったら、わたしは満足なの」
海沿いの風は強くて、傘の中にも容赦なく雪が舞い込んでくる。
M希ちゃんの青い、学校指定のコートの上にも、少しずつ白いものが目立ち始めていた。
少し、M希ちゃんの言葉が途絶えた。
俺はやはり何も言えない。ただ、落ち着かなかった。彼女が何を言おうとしているのかが、何となくわかり始めてきた。
ただ、それが信じられなかっただけだ。
「…まだ、付き合うのはちょっと無理。でも…いくら今がそんなでも、好きって言われて嫌な気持ちはしないよ」
「ちょ、ちょっと…?」
「そんな人とのセックスなら…ずっと先になっちゃっても、笑って思い出せると思うの」
M希ちゃんは立ち止まった。
俺も自然に足が止まる。いざ立ち止まってしまうと、なんだか身体がふらついた。
さっきから感情の浮き沈みが激し過ぎたせいか、感覚がおかしくなっている。
もうかなり強くなっていた雪にまみれながら、M希ちゃんが俺の方に、一歩歩み出た。
唇が開いたとき、風の音が一瞬、聞こえなくなった。
「…最後にひとつ…新しい思い出、作らない?」
とはいったものの、一瞥しただけでも卒業式直後と分かる格好の俺たちが入れるラブホテルなんてない。
倉庫街だから、他にめぼしい施設もない。
しばらくウロウロと彷徨ったあげく、俺とM希ちゃんはひさしが大きく張り出した倉庫を見つけて、その下に避難した。
学校を出た時の降り方が嘘のように、雪は激しくなっていた。
工場の方ならまた違ったのだろうけれど、この辺りの倉庫街は普段でも人けがあまりない。
この天気ではなおさらで、人影一つ見えなかった。
ただ、それはこれからしようとしていることを考えたら、好都合でしかなかった。
「なんだか、別世界みたいな気がする」
「そうだな」
「神様からの卒業プレゼントかな」
そう言いながら、彼女は意味ありげに笑った。やはりその笑顔には力はなかったけれど、心を決めていることだけははっきりと感じ取れた。
「ホントにいいのか?…寒いし、それに…」
「今さらでしょ。わたしのことは、気にしなくていいから…したいこと、して」
「…そんなこと言っていいのかよ…もしかしたら俺、M希ちゃんが引くような性癖かもしれないんだぞ」
「あなたに限って、それはないよ。三年間の付き合いだもの、わかってる」
「言い切るなあ」
「信じてるから。それに…ここでするっていうだけで、もう十分危ないじゃない」
確かに、彼女の言うことはもっともだった。
いくら人の気配がないとはいえ、ここは道路から一本入っただけの公道の真ん前なのだ。
いつだれがやってきたって、おかしくはない。
「もう…することだけ考えようよ」
それでも、M希ちゃんの言葉には迷いはなかった。普段真面目なだけに、こうなると突っ走るタイプなのかもしれない。
彼女の意外な一面に、俺の方がすっかり毒気を抜かれていた。
「…来て」
落ち着いた静かな声だったが、それには有無を言わさぬ迫力があった。
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