何故あんなことを考えてしまったのか。
今思うと、本当におかしくなっていたと思います。
専業主婦になってから数年たったころ、わたしはふと退屈を覚えていました。
子供はいないのでパートに出てもよかったんですが、主人はそれを止めました。
むしろ、家で料理や家事をしっかりして待っていてほしい。それが主人の希望だったんです。
もともと主人は亭主関白気質でしたから、反論しても聞き入れてくれる見込みはありません。
仕方がないと思って、わたしはそれを受け入れました。
ただ予想通り、家事しかやらない生活は、わたしには気分的にきついものでした。
それに、主人の給料も平均を下回っていましたから、その不安もありました。
当面の暮らしに困ることこそありませんでしたが、先々大丈夫だろうかという心配はありました。
子づくりだって、それが原因で先延ばしにしてたくらいですから。
細々とやりくりして、貯金がたまっていくのを待つくらいしか打つ手はありませんでした。
やはりパートに出た方がいいんじゃないか。
そう思うこともありましたが、主人は「俺に任せておけ」というばかりで許してはくれませんでした。
そんな気分でいたときに、ある在宅の仕事の存在を知ったんです。
それも内職といった地道なものではなくて、一攫千金的な、独立してみませんか、的なもの。
その手のことに、わたしはまるで無知でした。
これがわたしの求めていたものだといわんばかりに飛びついてしまったんです。
もちろん、こういうので稼げる人もいるんだとは思います。
ですが、わたしにはそれは当てはまりませんでした。
やれどもやれどもまったくお金が入ってくる気配はありません。むしろ、出費がかさむばかりです。
わたしにはこういう才能はないんだなあと実感しました。
そこまでわかっていたら、普通はここで引き返しますよね?
ですが、その時のわたしはすっかり頭に血が上っていました。
ここまでお金をかけてしまったんだから、やめるのは勿体ないと思ってしまったんです。
ギャンブラーの思考そのものですよね。
わたしはなかばやけくそ気味に、見込みがあると思ったものに湯水のようにお金をつぎ込み始めたんです。
いうまでもないですが、稼げる根拠なんてありません。
貯金額は、あれよあれよという間にどんどん少なくなっていきました。
ここまで来たらとても主人には言えない。
なんとか起死回生を狙うしかない。
追い詰められて判断能力を失ったわたしは、とうとう実際の商品の仕入れがいるようなものにも手を出しました。
それが結局とどめになりました。
売れるかどうかもわからない(そして実際に売れなかった)商品を大量に仕入れたことで、とうとう貯金が底をついてしまったんです。
さすがに、ここに来て主人も気が付きました。
わたしの部屋に見慣れない大量の在庫がいきなり現れたんですから、気づかれない方がおかしいです。
主人は激怒しました。
それはそうです。事情はどうあれ、数年間の貯金を勝手に使ってしまったんですから。
結局、話は収まったのですが、夫婦仲はどうにもギクシャクしたものになってしまいました。
そして、わたしは使い込んだ貯金分を補てんすることになったんです。
ただ、結果的にパートには出られることになったので、皮肉なものです。
ほどなく、わたしは近所のお店のパートに雇ってもらえました。
久しぶりの仕事は目が回るようでしたが、それでもやりがいは段違い。
同僚もいい人たちで、毎日が過ぎるのはこんなに早いのかと驚くばかりでした。
これまでの数年が嘘のようです。
が、やりがいはともかくとして、収入は少なかった。
使い込んだお金を埋め合わせるには何年かかるかわかりませんでした。
その間にも、主人は一刻もはやい補てんを求めてきます。
困り果てたわたしの目に映ったのが、自分の部屋に積みあがったガラクタの山でした。
せめてあれだけでも、なんとかお金に代えられないだろうかと考えたんです。
もっとも、売るといっても、当てはありません。
それどころか、営業の経験もない。
だから、友達やご近所さんとあったときに、もしいるようだったらどう?って言ってみるくらいが関の山でした。
幸い、何人かはちょうど必要だったという人がいて、買いとってくれました。
とはいえ、全体からみればごく少し。目標までは程遠かったです。
売るならちゃんとまとまった量を売らないと、どうにもなりません。
とはいえ、押し売りはさすがに…そこまでやったら、友人が今度こそいなくなるのは目に見えています。
そんなとき、ふと思いついた相手がいました。
近所に住む、Kさんという男性です。
歳は多分40くらい。大きな一軒家に一人暮らししていて、いかにも羽振りの良さそうな人です。
何をやっているのかは知りませんでしたが、家をオフィスにしているようで、自営業の社長と聞いていました。
町内の集まりで何度か顔を合わせたことはあり、面識はありました。
彼ならお金の余裕はあるだろうし、もし必要なら意外にまとまった量を買い取ってくれるかもしれません。
ただ、わたしは彼が苦手でした。
かなり前ですが、一度口説かれたことがあったんです。
もちろん、わたしが主婦になってからの話です。
断ったらあっさり引いてくれたので、まったく常識が通じない人ではないんでしょうけど…
ただ、今回に関しては、むしろ好都合でした。
何しろ、もともと苦手な相手です。
嫌われることを怖がらなくていいんですから、その時のわたしにとっては願ったりかなったりだったんです。
数日後、早速Kさんの家をたずねました。
以前の経緯がありますから話を聞いてくれるかがまず問題でしたが、彼はあっさりと家に上げてくれ、客間に通されたんです。
立派な部屋でした。
置かれている家具、ひとつひとつがいかにも高価そうで、自分の家にあるものとはまったく違います。
ソファもフカフカで、ちがう世界に来たような錯覚を覚えました。
お手伝いさんでしょうか、物静かな女性が、お茶を入れてくれました。
慣れていないわたしはドキマギしてしまい、言葉に詰まりながらぺこりと頭を下げたものです。
Kさんが用件を促してきたので、わたしはあわてて本題にはいりました。
こういう商品の在庫がたくさんあるんですけど、もしご入り用だったら買い取っていただけないでしょうか。
もちろん、「何だこいつ」と思われるのは覚悟のうえでした。
ですが、あっさりとKさんは「ああ、それだったら構いませんよ、在庫全部頂きます」と言ってくれたんです。
信じられませんでした。こんなに簡単に行くなんて。
あれが全部売れれば、それだけでもかなりの割合が補てんできます。
ただ。その後に続いた言葉に、わたしの喜びは一瞬でかき消されました。
「条件がひとつあります」
「何でしょうか」
「一度だけでいいです。私と寝ていただきたい」
彼は表情も変えずに、あっさりと言い放ったんです。
「そ、そんなことできません。か、帰り」
「それでも結構です。ただ、それなら申し訳ないですがこの話はなかったことに」
「あ…」
もともと、ダメ元と割り切っての訪問です。
だから、断られた場合はもちろん、もし変なことをいわれたら帰るつもりでした。
そう、帰るはずだったんです。
ですが、実際には、わたしは立ち上がることができませんでした。
それくらい、あの在庫がすべてお金に変わるという誘惑は強烈だったんです。
「…前にも言いましたけど、私、主婦ですよ…そんなこと…」
「何も継続的にという話ではありません。一度だけです」
「そ、そんな…だいたい、Kさんだったら、何もわたしとそんなことする必要ないでしょう。おモテになるでしょうし」
いかにも実業家といった雰囲気のKさんは、多少冷たい雰囲気ではありましたが、モテないタイプではありません。
けれど、彼はあっさりとそれを否定しました。
「ははは…そう見えますか」
「ええ…」
「残念ながら、私は経験がないんですよ」
「は?」
「言った通りです。未経験なんですよ。理想ばかりを追っていたら、出会いを逃してしまいましてね」
「え…でも、それならなおさらわたしなんか」
「いえ…だからですよ」
「は?」
Kさんの表情がはじめて変わりました。ごくうっすらとですが、顔が赤らんでいる気がします。
それに、目も心なしか泳いでいるような…
「ここまでくると、もう結婚は諦めているんです。ただ、やはり一度くらいは経験はしたいんですよ。…理想に近い相手とね」
「え、それって…冗談でしょう?!」
わたしは、別にとりたてて美人なわけではありません。ごく普通の外見です。
「いえ、…冗談ではないんですよ。わたしにとっては、あなたは理想に近いんです」
「あ…」
「どうでしょう。受けていただけませんか。何でしたら、その穴埋めですか?足りない分、全額をわたしが持ってもいい」
「ええっ…それは…」
「それくらいの価値が、わたしにはあるんです。十分すぎるくらいにね」
少し時間をください。そういって、わたしは席を立ちました。
その場限りの言い繕いのつもりでした。
いくら魅力的な申し出だからって、受けてしまったら今度こそ取り返しがつかなくなるかもしれない。
その恐怖感が、わたしをかろうじて押しとどめたんです。
Kさんは特に反応もせずにわたしを送り出しました。
決心がついたらいつでもどうぞ、とだけ言って。
外はもう暗くなっていました。
早く帰って晩御飯の支度をしないと、主人が帰ってくるのに間に合いません。
ですが、今しがた切り出されたKさんの言葉がぐるぐると頭の中を回るのを止めることはできませんでした。
お金のことだけではありません。
理想に近い女。
Kさんがわたしに掛けた言葉が、すごく大きかったんです。
考えてみたら、主人からそんな言葉を聞くことはまるでありませんでした。
もちろん主人が嫌いというわけではありません。
ですが、冷めた関係が続いていたところで掛けられたKさんの言葉は、わたしの心に食い込むには十分すぎたんです。
現実感がなく、まるで夢の中の出来事のようでした。
夢遊病者のようにふらふらしながら、わたしは家に向かったんです。
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